artist's notes
2006/3/20
いらないもので何かを作る。誰も注意をむけないような、無用と思われるものにも、そこに心を傾けることで新しい生命、小宇宙を誕生させる、平たくいうと、私にとっての芸術制作とはそのことが常に基本にあるように思う。
この「草のドローイングシリーズ」は、まさにそんな作品だ。自分の家の裏庭にある様々な雑草、それらをむすんでつなぎあわせ、一本のひも状のものにする。これが「線」となり、イメージがたちあがり、物語を作りはじめる。そして壁、キャンバスに小さなピンをさし、そこにその「草の線」をひっかけながらドローイングを作っていく。実に不確かで危ういミディアムであるし、どれほどの寿命があるかわからない。だいたい、常識的な素材からはかけ離れている。しかし、草でできたドローイングをみたい、という強い願望だけを根拠に、そして生まれた。3年以上月日がたった今、青かった作品は黄色に変わったが、今もしっかり残っている。
描かれるイメージはユーモラスなグラフィッティ様の人間と、動植物の並列。「人間と自然」という、芸術始まって以来繰り返して検証されている普遍的テーマでもある。植物(自然界)と人間の、ささやかなドラマ。ささやかな日常、こうした要素が深く根をおろしている。小さな日常、または日常の中の現実、非現実との境にある、小さな物語を切り取ったものでもある。
ここに描かれることは、一見してユーモラスで、繊細なドローイングのグラフィッティであるが、深い喜び、悲しみ、苦しみ、様々な感情がかくされているとも読めるだろう。この「草のドローイングシリーズ」にあらわれているイメージに、はっきりとした意図や、意味をもたせることはもちろん、自分自身もこれが何なのか説明することができない。しかし、受け取る側はそれぞれに自分のドラマとして見るであろう。
ぎこちない線、イレギュラーな線、インパーフェクトな形は、常に私がものを作るときにたちあわれる形態であり、いわば自分自身の「声」の質のようなものだ。自分が一番安心できる線や形であり、「手仕事」の証拠のようなものである。そこに「美」を感じ、表現しつづけている。あるいは、子供のようなドローイングや不器用な線は、自分が原点に返りたい、子供に帰りたい、または自分の中の「子供」を呼び覚ましたい、という内なる欲求のあらわれかもしれない。そして如何なるフォームをとろうとも、ドローイングというのは私にとって、生きていることの証にかわるものである。
草は大地からはえてくる。人間も大地からうまれ、作品は人間の手によって生まれる。様々な物事は様々な形でつながっている。そのみえない糸は、草の絵のごとく危なっかしいものなのかもしれない。