artist's notes
( paper for the forum of Art and Sustainability: at Counihan gallery )
June 2008
長い間、私はアーティストとして自分の制作と環境問題とどのように折り合いをつけていったらよいのか、ということを長い事考えていました。企業がものを作る際、解体するシステムをまず考えなくてはならないこの時代です。現代アートの世界も、何かある価値観の変換がなくてはならないと思っていました。
そのためにはまず、これまでのアートのあり方、アートを支えているシステム自体を、見直し何らかの形で変化させていくことがアートとサステイナビリティーを考えていく糸口になると思います。その答えがはっきりとみつかったわけではありませんが、その探求の旅の道中である現在感じていることを2、3お話したいと思います。
まず、今までのアートを支えている基盤、あり方というのはどんなものでしょう。まず大方の作品発表のあり方です。アート作品(完成されたオブジェクト)は作家によってスタジオで制作され、次にギャラリーなどの発表の場に展示され、それが終わって作品は保管される、という行程を経ています。また、それは作品が生まれるまでの時間のあり方をも仕分けします。おおざっぱに「制作の時間」、「鑑賞の時間」、「保存の時間」という具合に分けられます。そして役割のあり方。作り手(作家)、媒介者(ギャラリスト、キュレーターなど)、評価を下す人およびお金を出す人(評論家、やパトロン、コレクター)、鑑賞者(それを見に来る人たち)、という関係がはっきりとしています。他にももっと多様な構造がありますが私が焦点をあてているのは以上の点で、実は経済合理主義、経済効率至上主義という考え方が前提にあるあり方だとおもっています。
こうした既存の構造の中で、アーティスト(特に彫刻家、画家)にとってのとりあえずの成功と信じられているのは、1、アート作品がよりよい場所で発表され、2、より多くの人達に鑑賞され、3、その作品、オブジェクトは金銭と交換される、という構造だといってよいでしょう。その場合、金銭はそのオブジェクトをつくりあげられた技術力と時間、恒久的な素材への代価、ということがほとんどで、多くの場合、恒久的な素材とは、永遠に分解しないもの、つまり環境には優しくないもの、という問題と直結しています。
勿論、野外作品などそうした素材で恒久的な作品を作る事はアートのひとつの役割ですから、それを否定するつもりはありません。しかし問題は、自分の身体への影響、自然へのインパクト、制作自体が公害をだすことについての矛盾、そして値段などについて、疑問を持つアーティストも実はたくさんいる、という事実です。私もその一人で、田舎に住み、自然とできるだけ共存した生活をしようとしているのに、自分のミッションである制作自体が反対の方角をむいている、ということは、精神衛生上も作品制作のモティベーションのためにもよくありません。しかし、そういう鍵括弧いりの成功を求めるのなら、そんなことを気にしていてはアートのマーケットからはずれてしまうし周縁にいるアーティストとして隅に追いやられている現状があります。しかし、ある時点で私は決心をしました。周縁に追いやられているのは経済効率優先のアートが中心にあるからであり、そうした中に組み込まれるのではなく、自分自身の価値観を中心に据えて新しいアート活動のあり方のマッピングを模索する、ということです。そしてその答えの一つとして、スローアートという概念を考えました。今世の中ではスローライフ、スローフードという新しい考え方が、経済効率主義に対抗するものとして、大きく世界の人々の精神生活を変化させています。スローアートという概念も、何らかの形でこれまでのアートのあり方、価値の転換をはかる大きな可能性があるとおもいました。
ロバートヒューズは2004年にすでにスローアートという言葉を使って以下のように述べています。“What we need more of is slow art: art that holds time as a vase holds water: art that grows out of modes of perception. …It doesn’t get its message across in ten seconds,… that hooks onto something deep-running in our natures.[1]”
一口にスローアートといっても、そこには様々な切り口からのアートが検討されるとおもわれますが、私自身の考えたスローアートあり方は以下のことです。
では、実際の作品をみてゆきたいと思います。
l 今回のクーニハンギャラリーでの作品’my dear garden’は、以上のようなコンセプトを念頭において作られました。この作品は明確な始まりも終わりもありません。ショーの開催中も常に変化していく作品をつくる、ということに焦点をおきました。
まず下絵となるドローイングを描き、(今回は自分のバックヤード)、それを画廊にてプロジェクターで拡大し、鉛筆でトレースして、そこにピンを打っていきます。そして自分で育てた草をそのピンにそって、ひっかけて壁面のドローイングを作っていく。というものです。
見る人達は完成された作品ではなく、その過程をみることで、様々な想像をしなくてはなりません。この先どのように発展するのか、これらがもっと完成に近づいたらどうなるのか。スローなプロセスの中でじっくり身をおくことでしかこうした体験は得られないでしょう。
私は普段の日常では見過ごしているような見えない時間や場所、行為の残骸をゆっくりと見つめ、時間をかけることで、何らかの形で再構成してつなぎ合わせてみせる、ということに重きをおいて制作しています。それは当然と思っている構造を疑うという姿勢にもつながっていくでしょう。こうしたことが私なりの環境問題へのアーティストとしての問題提起になっています。
その他最近の作品を2−3紹介します。
l ブリージングソイルプロジェクト。これまで5−6回場所と参加者を替えて行っています。野菜が少しずつ変化していく、ということを観ている人に想像してもらうプロジェクトです。その過程は直接土を肥やす力になっていき、そこから植物が育つ力に変容してる、というところまでみつめて欲しいと思いました。
モアランドの野外彫刻展。究極にシンプルな素材、ひもとペグだけで何かできないか、とずっと考えて、試行錯誤の結果生まれた作品です。これも現地で制作、終わったら解体しました。
ムーニーポンドのインシネレイターコンプレックスにて、アーテサイクルという展覧会に参加した時の作品です。「世界は謎にみちている。私の半径20メートル」というタイトルで自分のスタジオから半径20メートルでみつけたものを使ってのインスタレーションを現地でつくりました。ほとんどが、こわれた庭用の家具と、5歳の息子が作って捨ててあった「元作品」を下地にして、アートとして作品にしたものです。前回つかったひもが大事な要素として使われています。ゴミにある行為を加えて、ひとつの小宇宙を構築する、というのは私の作品に共通したコンセプトで、過去、現在、未来をつなぐ過程も表現います。私の子供が作ったものにまた私が手をいれる、ということで、自分一人で作り上げる、という姿勢からも距離をとっています。この作品は「インスタレーション賞」をとったので、来年今度は地域の人たちとコラボレーションをしながら、それらをある形に昇華させ、アートとしてゆく、という制作発表を考えています。
2020?
この作品はつい先日、友人のアッシュキーティングが行った2020?というプロジェクトに招待されて作ったものです。彼は巨大な量の廃棄物をごみ埋め立て地から運んできて、分類、仕分け、並べ替えをしてサウンドアーティスト、映像アーティスト、ビジュアルアーティストなど、多岐にわたるアーティストを招いてひとつの空間を作品化しました。私は3夜、通いつめて、巨大なケーブルコードをひもとき、釣り糸でつなぎあわせ、このインスタレーションを作りました。作り終えた次の日が解体の日でしたから、あまり人の目にははいらなかったことでしょう。このプロジェクトに関して今は言及する時間がないのが残念ですが、先ほど私が述べたアートの概念の再構築という点において実に興味深いプロジェクトでした。
さてアーティストが廃棄物を利用してものを作る、というのは、近代アートの時代100年近く前からシュビッターズやピカソが行ってきましたからそれ自体が特別目新しいことではありません。しかし、今この展覧会でおこなわれているような様々な現代アーティストによるプラクティスは、シュビッターズが行った動機とはまた違った意図を持って行われているのだと思います。それは純粋な材料としての廃棄物ではなく、もっと倫理的、人類学的観点から、どのように自分の作品がこうした環境問題と関わっていけるのか、という痛切な問いから生まれた方法なのだとおもうのです。
集積し、並べ替え、切り揃え、部分に分解する、というやり方は大変な時間を要する、文字通りスローアートの典型的な方法論のひとつです、しかし私はそれ以上に、様々な人々と関わりをあえて持つ、ということもスローアートの大切な役割であると私はおもいます。そうすることによって、作品はもっと柔軟なものになるし、何よりアート制作という、経済効率主義の中では一番軽視されるような行為をより多くの人々と共有することができるからです。そこから多くのことがゆっくりと変わっていく、と私は信じています。
最後に私事ではありますが、以上に述べたような考えのために私は5年間いたコマーシャルギャラリーを離れることにしました。これは大きな決断ではあったけれど、コマーシャルギャラリーが商業媒体であることを考えると、私の考えているようなことは、よほど私の作品が商業メディアに華々しく取り入れられない限り、ほぼなんの価値ももたれません。だからそれは仕方のない事ですが、しかしこれをステップダウンと考えるか、まるで違う世界にシフトした、と考えるかは、自分の考え次第です。先ほど指摘したそうした既存のフレームワークにのらずに自分の考えていることを続けていける制作方法を今後も模索してゆきたいと思っています。
一番考えなくてはならない問題はアーティストが、自分たちの作品制作に対する代価をどのように得ていくかということだと思います。こうしたことこそはアートとサステイナビリティーということに関わっています。私達は暇があるからこうした売れない作品をわざわざ作っているわけではないのです。このことは、しばらくのあいだ、積極的にこうしたアートのあり方の重要性を世間に問い続けていく事で、みなさんに積極的にこうしたアートを鑑賞していただいて積極的に関わっていただく事こそが、今後の答えになっていくことだと信じています。
最後にスロームーブメントの運動家であるガットーム フロイスタッドの‘スロー’の意義についての引用で締めくくりたいとおもいます。
“The only thing for certain is that everything changes. The rate of change increases. If you want to hang on, you better speed up. That is the message of today. It could however be useful to remind everyone that our basic needs never change. The need to be seen and appreciated! It is the need to belong. The need for nearness and care, and for a little love! This is given only through slowness in human relations. In order to master changes, we have to recover slowness, reflection and togetherness. There we will find real renewal.”[2]
(ひとつ、確かな事はすべてのことは変化するということだ。変化の度合いはどんどん高まっていく。もしあなたがそこへ固執するのなら、急がなくてはならない。これが今日のメッセージだ。しかしながら、私たちのベーシックなニーズは変わる事がない、ということも覚えておくにしかることだ。きちんと顧みられ、感謝される事!これは何かに属していなくてはならないというニーズである。きちんと人間として顧みられ、親しくされ、愛される事。これはゆっくりとした確かな人間関係があることが前提だ。大きな変化の為には我々はスローであること、共に生きる事を再認識していかなくてはならない。そこで我々は真の蘇生、再生を見いだすのだ)
これはアートに限定した話ではありません。生活の全般において大切な価値観だとおもいますし、アートも、アーティストや関係者だけのものだけではなく、すべての人々にとっての大切な生活の一部になるべきです。今後もみなさんと模索してゆきたいとおもいますのでどうぞよろしくお願いします。
ご清聴ありがとうございました。
[2] Guttorm Fløistad